<説教の要約>

 西経堂伝道所牧師 西田恵一郎

 「お手本となる存在」    

(詩編135編1~4節、テサロニケの信徒への手紙 一 1章4~6節)

 

 パウロは自分たちと主に「倣う者」(Ⅰテサ1章6節、Ⅰコリ4章16節、11章1節、フィリピ3章17節))になるよう勧めます。彼は自分を誇っている訳ではなく、「主イエスに倣っている私に倣ってくれ。そして、私の生き方、延いては存在そのものがキリストのそれに近づくように」と言っているのです。しかし、その前に彼自身の自己理解に目を向けなければなりません。彼は自分を「罪人の頭」(Ⅰテモテ1章15節)と呼び、「私はなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7章.24節)と嘆いています。彼はこの自己理解からイエス・キリストによって神への賛美と感謝へ移されて行きます (Ⅰテモテ2章17節、ロマ7章25節)。この一大転換の目的は「(罪人の頭)である私が憐みを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(Ⅰテモテ2章16節)。「神の御業の前例・証として私を見て欲しい。私を見るということは神の御業を見ることで、あなたがたにもそれは起こるという保証だ」とパウロは言っているのです。主に倣うとはイエスを真似ることです。しかし、それは聖霊により罪を認め、悔い改めるところから始まるのです。その時、テサロニケの信徒を通して表れた御業が私たちを通しても表れるのです。