<説教の要約> 

「知らない、分からない。でも見える!」

(出エジプト記20章5~6節、ヨハネによる福音書9章1~12節)

 

 因果応報の思想はユダヤ文化の中にもありました。イエスは生まれつき目の見えない人を癒すことで因果応報の呪縛を解くのです。前章まででイエスは神の子であり、神から遣わされたメシア(救い主)である。そして、彼を信じるなら、断絶していた神との関係は彼によって回復されると言明していました。また、同時にそれを立証する奇蹟を行いました。それがユダヤ人たちの殺意を買っていたのです。9章で当時の常識となっていたこの伝統的理解を覆してしまいます。それがユダヤ人らの殺意を一層強めてしまいました。彼らはイエスが「神からの者」と受け入れたくなかったのです。イエスを陥れるため、癒された男を詰問します。イエスは神の冒瀆者であるとの証言を引き出そうとしたのです。しかし、彼はただ「私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」(25節)と答えるだけなのです。結局、男は村八分にされてしまいます。しかし、イエスは彼を見つけ出し、信仰へと導きます。彼を癒された時、イエスは「神の業がこの人に現れるため」(3節)とおっしゃいました。「業」とは、目が見えるようになることです。しかし、「神がお遣わしになった者(イエス)を信じること、それが神の業である」(6章29節)と記されているように、信じることを意味しているのです。見えるようになるとはイエスを信じ、本当に大切なものに対して目が開かれることなのです。