<説教の要約>
「だれのために働くのか」
(申命記10:17~21、エフェソの信徒への手紙6:5~9)
イエス誕生当時のローマ帝国では、ローマ人1人に対して奴隷が2.6人付いており、1年の約4割が休日で、専ら見世物の観戦やグルメに狂奔していたようです。あらゆる仕事が奴隷によって為されており、主人との間に信頼や愛情の絆が生じることもあったようですが、根本的には奴隷の生活は陰鬱で恐ろしいものでした。教会にも「奴隷たち」(5節)と呼ばれていた人たちが多くいたことは確かでした。パウロは彼らの解放を訴えるのではなく、「肉による主人に従う」(5節)ことを求めます。5~8節で注目すべきは「キリスト、主、神」の頻出です。「キリストに従うように」「キリストの奴隷として」「神の御心」「主に従う」「主から報い」とある通りです。この姿勢による従順は、9節に「同じように」とあるように主人にも当てはまる命令なのです。奴隷たちの主人はキリスト、肉による主人たちの主人もキリスト。彼らは同じ主人(キリスト)に仕える同労者なのです。これは教会という枠組みの中では通用しても、一般社会ではどうでしょうか。私たちに出来ることは限られています。しかし、まずは個人的にキリストの奴隷として生きることです。マタイ25章40節には「これらの最も小さい者の一人にしたのは、私にしたのである」とあります。すべての人に仕えることは、主イエスに仕えることです。仕えることにおいても、人でなく「神に喜ばれるものが何かを吟味」(5:10)する者でありましょう。