<説教の要約>

「キリストにふさわしく生きる」(イザヤ書6612、エフェソ416

 

「ですから」という接続詞と共にこれまで積み上げてきた「教え」を根拠に、4章から「訓告」が始まります。しかし、訓告はただの道徳的戒めではありません。ロマ書でも訓告が始まる12章の初めに、また「十戒」の前文においても神による救いの恵みを再確認した上で、恵みを受けたの「ですから」感謝しつつ、「ふさわしく」歩もうと勧められています。竹森満佐一先生は教会を「祝福を受けた特別なもの」と呼びました。その「特別なもの」へ「招かれた」キリスト者は、個人の人格を高めるためというよりも、教会を建て上げるのに必要な「霊による一致」を生み出すために徳目を身につけなければならないのです。それが「謙遜、柔和、寛容、愛を持って互いに耐え忍ぶ」なのです。特に謙遜から始めるべきとカルヴァンは言います。謙遜は「愚かな自負心を持たず、自分自身を頼みとしない」ことです。これは「霊の結ぶ実」ですから、私たちは常に聖霊の満たしを求めるべきです。同時に「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました」(ヘブライ58)。従順を学ぶことは、これらの四徳を学ぶことにつながります。主イエスでさえ、苦しみを通して徳を学んだのですから、私たちも同じ道を歩むようになっていると言えます。苦しみが臨んだ時、「主に似る者にされるため」そして「『祝福を受けた特別なもの』を建て上げるため」と信じつつ、通り抜けさせていただきましょう。