<説教の要約>

「弁護者キリスト」

(イザヤ書53章3~5節、ヨハネの手紙一2章1~6節)


 長老と呼ばれた著者は何度か信者たちに「私の子たちよ」(1節)と呼び掛けています。この親心にも似た愛の心は今も教会の指導者たちに求められています。その心から出た言葉が「罪を犯さないようになるためです」(1節)、そして「たとえ罪を犯しても…弁護者キリストがおられます」(1節)でした。罪を犯してはならないのは、律法が命じるからというより、罪は交わりを破壊し、喜びを失わせるからです。しかし、人は罪に魅かれ、罪を犯してしまいます。どんなに強く禁止されても…。イエスは禁止だけでなく、「罪を犯さないようになる」ための手引きをも与えて下さいます。その究極的方法がイエスを救い主また人生の主人として信じることです。それをこの手紙では「光の中に留まり、光の中を歩む」と表現しています。しかし、信じた後も罪に魅かれる弱さゆえに、不本意ながら罪を犯してしまった場合、イエスが弁護者(援助のために傍に呼ばれた者、全存在を賭けて助ける者)として父なる神に執り成して下さいます。イエスの執り成し故に神は罪を赦してくださり、更に「罪を犯さないように」私たちを助けて下さいます。執り成された私たちが為すべきことはイエスに従うことです。その服従は究極的には「イエスが歩まれたように自らも歩む」(6節)に発展します。この歩みをキリスト者は追及するのです。私たちの傍らには常に「弁護者」がおられるので、助けて頂きながら歩みを続けましょう。