「祝され、愛され、選ばれた者として」
説教者 西田恵一郎 牧師

(エフェソ1114、詩編103122022

2023416

讃美歌:26、讃美歌:291、讃美歌:361、頌栄:539

 

宗教改革者マルティン・ルターがガラテヤ書を「私の妻」と呼んだ一方で、ジャン・カルヴァンはエフェソ書を「最愛の書」と呼んだと言われていますが、この手紙全体の中心テーマは「教会の本質論」  教会とは何か?そこで、キリスト者はどう生きるか?  であり、教会形成を大切にした彼ならでは、と納得するところではないでしょうか。教会形成(独立教会)を目指す私たちにも聴くべき言葉があるのではないかと思い、しばらくこの書簡から学んでみたいと思います。

この手紙ほど評価の異なる書は他に例を見ないと言われているようで、ある人は「陳腐・平凡な手紙」とけなせば、別の人は「崇高なる手紙」と称賛しています。教会歴史家柏井(かしわい) (えん)18701920、伝道者、植村正久により明治学院、東京神学舎で教鞭、YMCA主事など)が「エフェソ書は重き石材を積んで、建築をなすがごとし。堂々たる思想をたたんで、読む人をして神秘の堂内にひざまずく思いあらしむ。フィリピ書ごとき自然単純の美なく、ローマ書のごとき浩然(こうぜん)大海のごとき偉観(いかん)なしといえども、静かなる瞑想あり、麗しき讃美あり、()める情緒ありて、安息日の午後、大いなる会堂の内にあるがごとき思いあらしむ。これに加うるに根本思想にもとづける実際的教訓に()めり。心を潜め、忍耐して、その真意を探る者は大いなる賜物を受くることを得ん」と語っています。私たちも「大いなる賜物を受くる」ことができるようにと願いながら学びを始めたいと思います。

著者は議論はあるものの使徒パウロ。宛先はエフェソの教会ではあるのですが、小アジアの諸教会に回覧されたようです。エフェソは、小アジア(現在のトルコ)の西部、エーゲ海に面しており、政治的・経済的に栄えた町でした。肉欲の象徴アルテミス女神が祭られたアルテミス神殿があり、異教の地でもありました  ユダヤ教の地ではありませんでした。

パウロは第二次伝道旅行5153年)でこの町に立ち寄り、第三次伝道旅行5458年)中、23ヶ月滞在しました。この時に建て上げたのがエフェソの教会でした。執筆場所はローマの獄中。目的は信者をより高い知識に導き、より充実した生活に進ませ、また人種や性別に拘わらず、すべての者が一つの体として結び合わされるように勧めることでした。書簡全体の主題聖句は「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです」123

パウロは自己紹介を終え、すぐに賛美・頌栄に入っています。礼拝は讃詠に始まり、頌栄で終わる形式が多いようです。信仰生活とは、とかく「願いを訴える、求めを叶えてもらう」ことが主になりがちかもしれません  特に、日本人の宗教観は御利(やく)宗教的なので  が、信仰生活はまずは神を賛美し、神に感謝するものなのです。

314節は、賛歌で、讃美する理由が原文では3節の「たたえられますように」から始まり、14節の「たたえることになるのです」まではピリオドなしに一気に歌い上げられています。私たちが神を讃美する理由は、まず「霊的祝福」が与えられているから3節)。次に「選ばれている」からです。45911節で「前もって」が繰り返されていることから、「神の先行性」  すべて神が先に行っておられる  が見えてきます。「願う前から、あなたがたに必要なものをご存知」(マタイ67、また「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったから」(Ⅰヨハネ419からも、また4節からも愛における神の先行性が見えてきます。

「祝福」「選び」「愛」に共通しているのが、「キリストにおいて」です。英語の “in”、ギリシア語では “ὲñ” が、この手紙で37回、パウロの手紙全体で164回使われています。「キリストにおいて」13の「おいて」は、「~に所属して」の意味があり、私たちは「イエスのもの」という理解が可能です。環境や状態において用いるなら、「~の中に(で)」で、方向・運動においてなら「~に向かって」の意味と解されます。つまり、私たちは神のものであり、神の中で、神に向かって生きている者である。これが、「キリストにおいて」ということです。

キリスト教詩人の八木重吉が次のような詩を詠んでいます。「私たちが神と共にいなくとも、神はわたしたちと共にあり続ける。悲しい愛の待機、いつ醒めるとも知れぬ長い冬の眠りを、人々の心の中に待つ神」。神はずっと、そしてじっと私たちが神の方を向くのを待っておられた。そして、ある時、私たちはそれに気づいて、イエスの方を向いた。そして、「我が主、我が神」と告白した。その告白を正式に表明したのが洗礼で、結婚式での誓約のようなものと言えるでしょう。

告白前から、ずっと主は共にいてくださいました。それを分かってはいました。しかし、告白は、自分の全存在において、神のものとして、神と共に、神に向かって、神のために生きていると宣言することなのです。これがキリスト者なのです。使徒言行録1728節では、キリスト者とは「(私たちは)神の中に生き、動き、存在している」者となっています。

ある時、ニューヨークでの「バルミツヴァ」(ユダヤ教の成人式=12歳)でのことでした。説教の後、成人を迎えた息子に両親が次のような言葉を贈ったのです。「息子よ、これからあなたの人生に何が起きようと、また、あなたが人生で成功しようとしまいと、また、有名になろうとなるまいと、健康であろうと健康を失おうと、あなたの父と母が、どんなにあなたを愛しているかを、いつも思い起こして欲しい」。これが「祝福」の言葉でした。

「祝福」は、ラテン語で「ベネディチェレ」といい、「善いことを語る」「誰かの善いことを言う」という意味です。御世辞を言うことではありません。「称賛」以上の言葉で、「互いに認め合うこと」です。私たちは、皆、認められているかどうか、受け入れられているかどうか心配し、恐れ、不安になるものです。だからこそ「祝福」が必要なのです。神様は、私たちを「祝福」してくださっています。私たちを「認めて」下さっています。このことに感謝したいものです。

「祝福」という時、私たちは神様が一方的に人間にくださるものと考えがちですが、「祝福する」とは「互いに認め合う」ことですから、私たち人間も神を祝福できるということになります。詩編103104編に「私の魂よ、主をたたえよ」とあります。「たたえる」には「祝福する」という意味があります。また「守る、感謝する、賛美する、加護を祈る、聖別する、喜ばせる」などの意味もあります。この言葉は、互い  つまり双方向  の関係で成り立っている言葉ですから、私たちも神を礼拝する(賛美・感謝・祈り)ことによって神を「祝福する」ことができるのです。そしてこの姿勢は人間同士の「互い」にまで広がることを覚えたいのです。 

 私たちが讃美する理由の2つ目は「選ばれた」からです。私たちは、皆、これまで選ばれたり、選ばれなかったりして、生きてきました。入学試験での合格不合格、就職での採用不採用など。当然、選ばれると嬉しいし、選ばれないと悲しい。しかし、人生、いつも選ばれる訳ではありません。しかし、聖書は断言します。私たちは、神様に選ばれている、それも「天地創造の前に」。ガラテヤ書19節でいうなら「神を知ったのに、いや、神に知られたのに」です。言い換えると「丸ごと受け入れられている」ということです。それを知る時、同時に気づくべきことは、選ばれているのは自分だけでなく、隣人として与えられている教会の「仲間たち」も神に選ばれているということです。

私たちが神を賛美する3つ目の理由は、「愛されている」からです。ある翻訳では「天地創造の前に愛した。そして、選んだ」となっています。神の先行性と同時に、私たちは壮大なスケールの愛・計画の中にあるということが分かります。「人間が心から落ち着くためには、愛の確かさに対する絶対的な確信が必要で、原体験としてそれを欠いてしまうならば、その後の歩みが非常に不安定になる。物事を落ち着いて受け取ることができなくなり、ちょっとしたことにも傷つき、動揺してしまう。神からどんなに愛されているか、その愛を深めていくことによって、心が落ち着き、力づけられ、人に向かって積極的に開いていくことができるのではないか」と言った人がいます。

このようにして、私たちは「聖なる者、汚れのない者」とされてゆくのです。「聖」には、「神」そのものの他に、「分かつ、切る」「取っておく」という意味があります。「取って置き」という表現もありますが、私たちは世の中の基準や価値観から「分かたれ」、新しい価値観に気づいて生きてゆく。そして、自分に対しても「自分は取って置き」の大切な存在である  つまり価値ある者なのだ  と評価が変わり、前向きに、神に仕える者として生きてゆく者とされるのです。

天地創造以前という想像を超えた次元の愛と選びの対象とされていること、そして神と私たちという祝福され、祝福するという相互の交わりの関係に入れて頂いたことに感謝しながら、この愛において更に成長し、イエスが遺言として命じられた「互いに愛し合いなさい」

という戒めに生きる者とさせて頂きたいと思います。