<説教の要約> 

「神の子どもである私たち」

(創世記3章14~15節、ヨハネの手紙一2章28節~3章10節)

 

 反キリストに惑わされないための道は「御父と御子と聖霊の内にとどまる」、具体的には父と御子と御霊を伝える御言葉にとどまることでした。教会の外からはローマによる迫害、内には偽教師の惑わしがある中で「御言葉にとどまる」ことは簡単ではありませんでした。そこで著者は「御子が来られるとき(再臨)」(2章28節)に目を向けさせます。「マラナ・タ」   主よ、来てください   との希望を持つと同時に、「マラン・アタ」   主は来ておられる。今、ここに   と信頼することを勧めるのです。更に励ましとして、信者たちが「神の子ども」(3章1節)である事実を確認します。彼らを神の子どもとするために神はご自身の独り子を犠牲にされました。それ程までに愛されている。そこに「御子が清いように自分を清くする」(3章3節)、「罪を犯さない」(6節)、そして「兄弟を愛す」(10節の言い換え)という勧告を行う動機づけがあるのです。従って、これらの勧めを守ることはキリスト者の倫理的義務ではないのです。愛なる神への感謝の応答なのです。更にキリスト者を「神に似たものとなる」(3章2節)とさえ約束されているのです。「似る」は「変わる(成長する)」ことです。キリスト者は日々成長する者なのです。この成長を邪魔する者たちが例の偽教師たち   言うだけの者たち   でした。彼らの惑わしに陥らないで、神に喜ばれる者として生きるために「御言葉にとどまる」ように努める私たちでありたいものです。