西経堂伝道所の歩み(その2)  長谷川保男 初代牧師(1994/05)

 

(前回の記述)1960年ー1964年「集会所時代」

(今回の記述)1965年ー1969年「日本キリスト教団時代」

       1970年ー現在 「日本基督教会時代」

 

  「日本キリスト教団 西経堂伝道所時代」

 

 1966年2月に日本キリスト教団の伝道所として総会議長より認可がおりた。このために近隣諸教会の同意を得なければならず、海外在住の教師にまでこれを求める苦労をした。伝道を開始して7年目、正教師の資格を得てから4年目であった。

 教会員としては長谷川和恵、長谷川美保(小児)が与えられ、遊馬栄、矢野恵子、長谷川真人(小児)等の受洗者が与えられた。次いで他教会から国吉三郎、長谷川みつ子、池田幸その他の転入者があり、68年には教会員25名、日曜学校生徒は100名を越えた。このような中で日本キリスト教団の合同教会固有の問題が生じたのである。

 ひとつは教団がかつての日基、組合、バブテスト、メソジスト、ホーリネスその他の各教派から成っていることから、そこからの転入会員は全く異なる教会観と教会生活をもたらしたことである。もうひとつは、主任者であるわたしの問題であるが、合同教会の中で受洗し、合同神学校で育った教師が、全く教会伝統のない開拓伝道を始める問題性である。何を基準に教会形成をするのかが問われるのであった。後者を確認するために、地域の牧師に呼びかけて、定期的な勉強会をもったがお互いの違いを確認するだけで、ひとつの教会、ひとつの神学に結集することは不可能であった。同じ時期から開拓伝道を始めた千歳南伝道所(世田谷粕谷)の野口牧師とともに、渡辺信夫牧師の指導を得て、カルヴァンの勉強を始め、信仰告白とそれを支える神学こそが教会形成の基準であることを確認し得た。それは具体的には日本基督教会への道であった。教団に止まっていては教会形成が困難であると判断し、69年に教団を離脱し、70年に新しく日本基督教会の西経堂伝道所を開設した。25名の会員中これに加わったのは、13名であった。

   これが「日本キリスト教団 西経堂伝道所時代」の略史である。

 

 『まじわり』 第9号(1994/06)より