<説教の要約> 

 西経堂伝道所牧師 西田恵一郎

「神まず我を愛し給う」 

  (レビ記19章17~18節、ヨハネの手紙一4章17~21節)

           

 アガペー(神の愛)の実例は放蕩息子の喩で確認できます。父は息子が全うな人間になった後でなく、帰宅するなり受け入れました。無条件性と父子の関係回復を優先した愛です。そこから「完全な者になりなさい」(マタイ5章48節)へ進みます。これは「神のような完全」でなく、「神の子」として神に相応しくなる求めです。その要求は「(神の)愛が私たちの内に全うされている」(17節a)という土台が出来ているからです。イエスを救い主として信じ、告白する者は「神に愛されている」事実として受け入れた者です。その人の内に「神の愛」は完成しました。しかし「私の愛」が完成した訳ではありません。完成を目指して進みますが、裁きの日を恐れながらではありません(17節b)。それをパウロは「安心している。(故に生きるにも死ぬにも)ひたすら主に喜ばれる者になりたい」(Ⅱコリ5章6、9節)と言うのです。彼にとって裁きの日は主とお会いする日なのです   まるで愛する人と再会するかのように。「イエスが天でそうであるように、この世で私たちも、愛の内にあるのです」(17節c)は「イエスが神に愛されているのと同じように、私たちも神に愛されている」と訳せます。神はイエスの受洗後「あなたは私の愛する子」(マルコ1章11節)と宣言し、救い主としての働きへ送り出しました。私たちも神の愛する子であるので、その声は私たちを使命へと送り出す声でもあるのです。その声を受けて、各々の使命を果たす為、出て参りましょう。