<説教の要約> 

「イエスを信じ、愛し合う」

(歴代誌上28章9節、ヨハネの手紙一3章19~24節)

           

 イエスは救い主であるとの信仰により罪が赦され、神との交わりが回復された。そして、神の愛の内に置かれ、また神の愛が内に宿るようになった。それ故に「互いに愛し合う」ことを実現しつつある。これがキリスト者です。それが「真理から出た者=神に属する者」(19節)です。彼らは将来の審判に対しても「心安らか」(19節)で神の支配の下にあるので、現在の問題の中にあっても「心安らか」です。たとえ「心に責められることがあろうとも」(20,21節)、またなかろうとも「神は大きく、すべてをご存じ」(20節)であることを知っているので、「心安らか」にできる確信を持っています。また、祈りは必ず叶えられると確信しています。なぜなら、神の戒めであり御心である「神の御子イエス・キリストの名を信じ、互いに愛し合うこと」(23節)を行っているからです。愛は信仰を前提としており、信仰と愛は連動しているので、イエスへの信仰を告白する者には愛する道が開いているのです。たとえ今、愛せなくとも、愛する者としていただけるのです。信仰も愛も神の業です。私たちがすべきは「神の内にとどまる」ことです。ゲッセマネの園で血の汗を流し、「御心のままに」と祈ったイエスは父なる神とひとつとなることを祈ったのです。同時に、共に居た3人の弟子たちが神とひとつとなるようにと執り成しておられます。「主の心を我が心となす」過程でした。このような祈りの時も「互いに愛し合う」ためには必要なのです。