<説教の要約>

「光の中を歩むなら」

(詩編32編5~7節、 ヨハネの手紙一1章5~10節)

 

 著者は「神は光である」(5節)と言います。光に対比されるのは闇です。光の中にいる信徒たちに比して、闇の中にいるのは偽教師たちです。彼らは「神との交わりを持っている」(6節)、「自分には罪がない」(8節)と言いながら、行為においては全く逆でした。人は言葉では嘘をつけますが、行為では嘘はつけません。彼らが光の中にいないことは、行為が証明していました。著者は光について「話す」より光の中を「歩む(生きる)」よう勧めます。それには、まず光の許に来なければなりません。光の許に来るということは、すべてが暴かれることです。それを覚悟して神の許に来る時、光は同時に人を慰め、温め、生かします。暴かれた罪を認め、悔い改め、光の許に来て、光の中に飛び込みたいと願う者を神は捕えて、イエスの血潮によって罪を赦し、光の中に迎えて下さいます。一方、罪が無いと言い張っていた偽教師たちの生き方には命も無ければ、人を生かす力もなく、ただ虚勢と自己満足に生きていただけでした。御父と御子との光の中の交わりに入れられた者は、先に光の中を歩んでいる者たちの交わりにも加えられます。そして、光の中で共に成長するのです。それが教会生活です。遅々とした歩みでいいのです。「光の中でだんだん変わっていくんです。それでいいんです。長い目でキリストは見て下さる」、植村環先生の言葉です。