<説教の要約>

説教者 西田恵一郎 牧師

「神に知られ、神を知る」(詩編13914、エフェソ11523

 

神は「前もって」私たちを知り、祝し、愛しておられました。その知識・祝福・愛は完全でした。私たちを「究め、知り」尽くした上でのものでした。こんな罪深い私たちを知り尽くした上でなおも愛してくださったのです。「ありがたい」という思いから、エフェソの信徒たちは「信仰」と「愛」を実践していたようです。しかし、それで十分ではありませんでした。さらなる成長をパウロは求めました。神に「知られている」から、神をもっと深く「知る」必要があるのです。この「知る」は知識の蓄積でなく、人格的・経験的交わりです。ヨハネは「私(イエス)を見た者は、父(神)を見たのだ」と言いました。つまり、神を知るなら、イエスを知ればよいのです。そのために必要なのが「知恵と啓示の霊(聖霊)」です。聖書を通し、聖霊によってイエスを知る時、与えられるのが「希望」「受け継ぐもの」「力」です。これらをもたらすイエスは「すべてのものの上に立つ」お方なのです。そして、このお方が教会に「頭」として与えられているのです。その「体」が私たちです。頭は「体」が必要です。主イエスは御業を表すために、何と、私たちを必要としてくださっているのです。主に用いて頂けることは何と幸いでしょう。これを悟ったパウロは獄中でした。獄中だからこそ、目が開かれたのです。私たちへの苦難も同じなのです。苦難も益なのです。