<説教の要約>

「心の飢え渇きを満たすもの」

創世記2718、ヨハネによる福音書4315

 

土の塵で形づくられた人間が「生きる者となった」(創世記27のは、神が「命の息を吹き込まれた」時でした(創世記27。「生きる」は「口を開けて、喉や食道で何かを飲み込もうとしている姿」(ヘブライ語)を示しており、「息」は「霊」を意味するので、人は何か霊的なものを飲み込もうとしながら 飢え渇きながら 生きていると言えます。最初の人(アダム)には衣食住や仕事も備えられており、「ふさわしい(同じ平面に立って向かい合う)助け手」18節)も与えられていました。しかし、何かに欠けていました。「生きる」とは、関わりの中で営まれることです。欠けていたのは、神との関わりでした。「私の魂があなたの内に憩うまでは、私の魂は憩うことはない」(アウグスティヌス『告白』)のです。新約聖書ヨハネ伝4章に、憩いに飢え渇きながら、それを得られないでいた女と、それを与えようとするイエスの対話が記されています。飢え渇きを象徴する井戸の傍での出来事でした。喉の渇きを潤すためには汲む物が必要なように、心の渇きを満たすためにも汲む物が必要なのです。「私がそれである」(26)とイエスご自身が伝えます。彼女自身の罪を知らせた後のことでした。心の憩いを妨げていた罪を赦し、それを取り除くメシア(救い主)と出会った彼女の変化は明らかでした。後ろ指をさしていた人たちの所へ行き、メシアを伝えました。憩いと同時に、生きる意味をイエスとの出会いの中で見出していたのです。