<説教の要約>

説教者 西田恵一郎 牧師

「神の作品として」(詩編732328、エフェソ2110

 

将来への展望へと進みそうだった矢先にパウロは話を「かつては」と過去に引き戻します。エフェソ人たちは、かつては「死んだ者(生ける屍)だった」、「偽る者、嘘つき、誘惑する者」と呼ばれる悪魔に従っていたという事実を心に刻むためです。「しかし」(4節)と続きます。神はイエス・キリストと「共に」私たちを「生かし、復活させ、天上で座に着かせて」くださいました。「共に」は「共有の経験」を意味し、しかも「共有」の相手はキリストであり、主にある仲間たちでもあるのです。私たちはキリストと、そして主にある仲間たちと一心同体なのです。これが教会なのです。更にこれらの動詞は完了形であることから、「生き、復活し、着座する」のは過去・現在・未来のどの次元においても、つまり時間に制約されず永遠に経験できるものなのです。しかし、それは「信仰を通して」受け取るもので、「神の賜物」なのです。この賜物を授かった者は「善い行いをして歩む」10節)のです。神がそうしてくださるのです。「善い行い」とは、いわゆる善行だけではありません。「使命」とも言えます。人それぞれには、独自の使命が託されています。パウロが彼の使命、同時に生きる意味や目的、自己を活かす道を見出したのは、イエスとの出会いによってでした。主と共に、また主のために生きる者としていただきましょう。