<説教の要約>

「互いに向き合う存在として」

創世記22125、エフェソの信徒への手紙52133

 

521節から69節は「家庭訓」(家庭での人間関係)の訓戒です。当時(西暦1世紀頃)旧約を知るユダヤ人の間でさえ、女・子供・奴隷に対する扱いは酷いものでした。その中、「キリストに対する畏れ」21節)や「妻を自分のように愛す」33節)など愛に動機付けられた家庭訓には反感を買うほど強いインパクトありました。しかし、それが真理である故に妥協せず語る。これは今も生きています。家庭訓の大前提は、皆が「神に愛された子ども」51であることです。それ故に「神に倣うものとなり、愛の内を歩む」がパウロの教えの核です。道徳の教えの時と同様、家庭の営みも霊的なものであり、神の聖霊を悲しませない、主の御心を悟る、礼拝するという神との関係を第一としなければならないのです。21節でも「キリストに対する畏れを持って、互いに従う」ことが勧められている通りです。まずキリストを畏敬  尊敬し、信頼し、任せる  する。そして従う。「従う」は実質的には「愛する」と同じです。そして鍵は「互いに」にあります。家庭訓においては、すべての者は「互いに愛し合う」ことが求められるのです。それも「イエスが愛したように」です。22節からの妻と夫への勧告も要は「互いに愛し合いなさい」なのです。それが「互いに同じ目線に立って、向かい合い、互いを生かし合う関係」としてアダムとエバに与えられた関係でした。そこに戻るようにとパウロは説いたと言えます。