<説教の要約>

「休ませてあげよう」

(イザヤ書28章12節、マタイによる福音書11章25~30節)

 

「すべて重荷を負って苦労している者」(マタイ11章28節)を「疲労困憊・憔悴し、責任などに押しつぶされそうで、打ちひしがれている者」と訳している現代訳聖書があります。「それは私」と思う人が少なくないでしょう。人間は肉体と霊魂から成るという二分法があります。Ⅰテサロニケ5章23節では三分法(霊と心と体)を採っているようです。肉体と心のバランスを失った人間は、霊に神の霊が加えられて健全性を回復するというのです。「苦労している者」とは①律法や伝承の重圧を持つ者(道徳的に正しく生きようとする者)、②罪を犯し、罪悪感に苦しむ者、③人生の思い煩い、苦しみ、問題に悩む者です。「休ませる」(28節)は「竪琴の弦を緩める」ことから「不安、罪悪感、焦燥感などから解放する」を意味します。また、「新しい、新鮮な命を与える」という意味もあります。その休息を得るには、①イエスの「来なさい」(28節)、「軛を負いなさい」(29節)、「学びなさい」(29節)の勧めに応えることです。休息への道は「私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章6節)と言われたイエスしかありません。彼は私たちの人生の軛を共に負って下さる方であり、生き方の手本として学ぶに最高のお方です。休みたいのに安らげない者たちが、その魂を休ませることができる道を示し、同時にその安らぎを見せて下さった方からの「私のもとに来なさい」という招きに応えたいものです。