<説教の要約>

 西経堂伝道所牧師 西田恵一郎

「イエスの焼き印を身に受けた者として」  

(イザヤ書65章17~18節、ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節)

 

 偽教師たちが何故キリストの福音以外の「ほかの福音」を語るのか、その動機が明らかにされます。「見栄を張りたい(よく思われたがっていた)」(12節)からでした。自己の実績を誇ろうとしていたのです。それは「決してあってはならない」(14節)、「誇る」   正しい意味では、依り頼み、拠り所とするなら「十字架にはりつけにされた」(14節)キリストのみを誇れ、とパウロは言うのです。キリスト者とは自己の罪と向き合い、十字架でキリストと共に死に、共に甦らされ、そして共に生かされている者です。それを知り、誇る者こそが、実績やトラウマなどの過去やこの世の基準から自由にされるのです。自由にされたキリスト者は「イエスの焼き印を帯びて」(17節)いる者です。「焼き印」は所有者のために労する故の苦難を示すものですが、同時に所有者の保護の中にあり、その関心の対象であることも意味します。キリスト者は主人であるイエスの愛と恵みの中にあるのです。「慰めは何か」(ハイデルベルク信仰問答問一)に対する答が、私たちは「キリストのものである」ということに通じます。「イエスの焼き印を身に受けた者」に注がれる「きょうだいたちよ、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように」(18節)の祝祷を受けながら歩み続けましょう。