<説教の要約>

「親がまず神の学校で学びなさい」

(詩編78:1~4、エフェソの信徒への手紙6:1~4)

 

 当時の「前キリスト教的異教世界」では子供に対する扱いも残酷でした。パウロの教えは当然、社会から反発を買いました。しかし、彼は社会運動として福音を説いたのではなく、「一人を救う」のためにそうしたのです。それが福音の本質です。子に対する勧めは親に「従い」(1節)、「敬い」(2節)なさいで、親に対する勧めは子を「育てよ」(4節)です。ここでも大前提は、全ての者が「神に愛された子ども」であり、故に「神に倣う」。共通の勧めは「キリストに対する畏れをもって、互いに従う」(5:21)であることを忘れてはなりません。子への勧めが「子は親に従えば幸せになる」と聞こえなくもありません。しかし、十戒には第1~4戒までの神との関係における戒めがあります。従って、子も親もまずは自分の神との関係を吟味する必要があるのです。その上で、それぞれが負うべき分が示されています。ここでも、主導権は親にあります。親が子に強制的な忍従とか盲目的な服従ではなく、自発的な帰依という意味での従順を求めるなら、まず親がそれに相応しい人物とならなければなりません。「自分たちの生活によって勝ち得た尊敬」によってしか、子からの尊敬を獲得することはできないからです。「親自身がまず主の学校において学び、主の愛によって生かされていなければならない」と言った人がいますが、子と親の関係においては「親がまず」なのです。親がまず神の愛を知り、愛する者でありましょう。