<説教の要約>

西経堂伝道所牧師 西田恵一郎

「十字架のつまずき」 

(レビ記19章13~18節、ガラテヤの信徒への手紙5章7~15節)

 

 「よく走っていた」(7節) 信徒たちをユダヤ主義的キリスト教指導者たちはイエスの十字架を信じるだけでは不十分、十字架プラス何か(善い行いなど)が必要だと説きました。パウロはこれをきっぱりと否定します。また、たとえ十字架を説いたとしても、体のよいキリスト教のシンボルとしてならば、そこに救いはありません。十字架は「つまずき」(11節)    「道に敷かれた障害物、腹を立てる」という意味    になり得るのです。十字架に架けられたキリストを信じることが救いへの唯一の道だと言い始めると、十字架が「邪魔になる」。そして、語る人に「腹を立てる」。しかし、十字架は父なる神と子なるイエスが命を懸けて拓いてくださった救いの道なのです。人に対する御神と御子の愛の証なのです。そこに御心が凝縮されているのです。それを語らなければ、真理を曲げること、神の御心を無視すること、神を悲しませることになるのです。キリスト者とは十字架を負う者、キリストのものになった者ということです。イエスが命を懸けて、神の許に買い戻してくださったのですから、感謝しつつそのような者としての歩みをさせて頂きましょう。それを可能にする主の恵みを求め、頼りながら。