<説教の要約>

西経堂伝道所牧師 西田恵一郎

「奴隷ではなく、神の子」

(エゼキエル書11章19~20節、ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節)

 

 律法が「後見人や管理人」(1,2節)に例えられています。当時、相続人は14歳になるまで後見人や管理人に権利の行使を束縛されていました。一方、律法を持たない異邦人は「もろもろの霊力」(3節)に束縛されていました。キリストによって解放されたにも拘らず、信徒たちはそれらの「本来神でない神々」(8節)への隷属に逆戻りしつつあったのです。そこで再度、パウロは彼らを「贖い出し」「神の子とする」(5節)ため神の子イエスが送られたことを伝えます。イエスが神の子であったように、イエスを通して私たちも神の子とされたのです。故に私たちは神を「アッバ、父よ」(6節)と呼べばよいのです。父と子の関係から生まれる永遠の命、永遠の喜びと祝福が与えられたのです。旧約の時代では、祝福というと専ら動産不動産を意味していました。その誘惑は未だにあります。しかし、真の祝福は神を父と呼び、神に子と呼んで頂ける関係性にあるのです。信仰の成人とは  「未成年」(2節)に対し  神にしか頼れないことを知る者のことです。彼(女)からは成人らしからぬ「アッバ、父よ」しか聞こえてきません。実はそれが信仰の成人の証です。その人こそ、子・相続人としての祝福を見出してゆく人なのです。