<説教の要約>

西経堂伝道所牧師 西田恵一郎

「神の待ち伏せ」

(サムエル記上15章22節、ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節)

 

 「義である」とは「下げ振りが真っ直ぐ」(垂直という基準を満たしている)という意味です。ユダヤ人にとっての「基準」は律法です。それを満たせないパウロは「律法の行いによっては、誰一人として義とされない」(16節)と告白します。そのパウロを知る主イエスはダマスコ途上で彼を待ち伏せしておられました。私たちの運命の中にも待ち伏せをする主が居られるのです。待ち伏せしておられるこのお方と出会うために必要なのが信仰です。「信仰によって義とされる」とは「全面的信頼・自己委託・自発的服従を通して神と一緒に生きられるようになる」ということです。しかし、人間の側の信仰も怪しいものです。故にイエスの「真実」(16節)の上に信仰(全面的信頼・自己委託・自発的服従)を賭するのです。その生活は「キリストが私の内に生きておられ」(20節)、また「神に(神に向かって、神のために、神に属する者として、神の代理として)生きる」(19節) 者とされる歩みなのです。それは人の再創造なのです。創世記1~2章で失われた最初の人間の本来あるべき歩みが取り戻されることなのです。「どこにいるのか」とアダムとエバを探した神は、今も私たちを探しておられます。「ここにおります」と応える者でありたいものです。