<説教の要約>

 西経堂伝道所牧師 西田恵一郎

 「死においても、主と共に生きる」   

(エゼキエル書13章9~12節、テサロニケの信徒への手紙一5章1~11節)

 

 再臨の時は誰にも分かりません。しかし、主が必ず来られることは「よく(はっきりと)知っている」(2節)のです。その根拠は聖書がそのように語っているからです。その聖書に全き信頼を置くのが信仰と言えます。その日は「突如として来る」(3節)、しかし「ふいに襲うことはない」(4節、新共同訳)と語る聖書の言葉は矛盾しているように聞こえなくもありません。ここでパウロが問題としているのは先のことではなく今のことであり、現在、私たちが何者であり、どのように生きるかということなのです。私たちは「光の子、昼の子」(5節)です。そうであっても、闇や夜とは接触があり、誘惑も受けます。故に「眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいなさい」(6節)と勧められているのです。「身を慎む」とは「酔わない」(7節)ということです。「酔う」とは正常な判断力を失うという意味ですから、正常な判断力を保つようにとパウロは戒めるのです。そのための「信仰と愛と希望」(8節)の武具は既に神によって与えられています。それを正しく用いるためには酔っていてはならないのです。主は私たちのために死んで、復活され、聖霊として共に生きておられます(10節)。その聖霊は主の日まで「私」だけでなく、「私たち」と共に生きて下さいます。それ故に、個人を造り上げるためだけに励むのではなく、互いに励まし合いながら、主の体(教会)をも造り上げて行くことが「私たち」に求められています。